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#579 アタマ整理中

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なんにも書かぬまま、気が付いたら冬が始まりそうだ。

更新再開に必要な環境は整った。しかし、ちしばらく中断して、あらためて考えてみると
書きたいことが何なのか、イマイチ自分でもよく判らなくなってきている。

無論、ブログなのだから、何を書いても良いはずだ。読者の方々の要望に応えるも良い
だろうし、日々の苦労をグチっても良いし、栽培中の作物観察や実験記録にしても良い。
実際に今までもそのように利用してきた。本来ならば、今後もそうすべきだし、そのように
するつもりではある。
 
ただ、本当に伝えたいことは現在何なのだろうかと。これがはっきりしないまま、その日
その時の気分を挙げてゆくというのが、どうにもすっきりしない。そんな中に時折
志を見せてみたところで、そうではない記事の中にそれは埋没してしまうかもしれないし、
ひいては自らの活動の軸がブレてしまうような気がしてならない。
ここらで長時間立ち止まってみたのは、無意識にそれを危惧しての事だったようにも思える。

 
 
「今どんな気持ち?」
 
言わずもがな、有名なソーシャルネットワークサービスのコピー。
気分で生きる世のツールであることをここまで端的に表現しているのは流石である。

知人との連絡や消息、近況の確認、諸行事の告知など、非常に便利ではあるのだが、
やはり依存する気にはなれない。果たしてこのようなツールに溺れ、気持ちに流されて生きる
ことがそんなに良い生き方なのだろうかと、普段通りしょうもない事を考えてしまうからだ。
 
「〇〇なう」 的な内容を毎日せっせとささやいてみたところで、そのような情報を欲する人など
そうそう居るものでもない。もしもいるとすれば、投稿主に心酔しているかストーカーの類だろう。
ならば、文章の主は何故それを毎日せっせと投稿しなければならないのだろう。
彼は「〇〇なう」をそこまで全世界に発信したいのだろうか・・・そんなはずも無さそうだ。
気分をその都度綴る必要性・・・いや、綴ってさえいない。キーボードを叩くか、スマートフォンの
画面に触れているだけではないか。例えば肉筆で「ラーメン〇〇なう」なる文章を挿絵つきで
残している人間がいたら、それはかなりの奇人である。しかし、綴るという表現は本来そう
いったケースで用いるべきものだ。綴っていない、書いていない、描いていないのだから、
tweetないしwisperという表現はしっくりくるのも当然だろう。従って、これまで自分がアップ
し続けてきた諸々の電子データも極端な解釈をすれば、それらと同じようなものだと言える。
需要はあったのかもしれない。けれど当人が何をどう発信すべきか、全てが釈然としない
ことに気づいてしまうと、継続は立ち行かなくなる。もっともらしい理屈を述べてきたが、これとて
更新をサボるようになった時点で釈然としない気分に真剣に対峙出来ずに呑まれてしまって
いるという訳だ。これが、システムに飽きて「〇〇なう」の更新を止めるのと何が違うというのか。

仮にそれが続けられたとしても結局、本来胸の奥底にある言葉はいつも表面には現れず、
気分のみが広大なエリアに向けてダラダラと無目的に発信されてゆく。そうやって気分を発散
することが、当人にとって精神を安定させる手段となりうるのならば、もはや何処にも本当に
伝えたいことなど残るまい。そして、いつの間にかただ発信すること自体が目的化してしまう。
そんな事になる位ならば、誰に見せるでもなく手書きの日記でもつけた方が良いに決まっている。
なにしろ、人の気分というものは意志よりも簡単に他人へと伝播してゆく。染まりたくなくても、
知らないうちに染まるのだ。この影響力は個々においては無力に等しいが、集まれば意図せずに
、人々を扇動することに繋がり兼ねない。それで良い時も良くない時もあるのだが、あまりに
無自覚かつ間接的な気持ちのやりとりを続けていると、自らの精神状態すら正確に判断
出来なくなる。現代は、そうやってネットを触媒とした気持ちの連鎖による暴走が起きて
いるような気がしてならない。そう感じるから、無意味な気分の発信は慎みたくなる。
逆に、それを利用して世論を形成しようという企みが増えた場合、ネット上では次第に個々が
自由に己の考えを表すことが困難になってゆくだろう。自由闊達な議論の場というネットの美点
そのものが失われ、誰も意図していないのに自動言論統制機能として働き始めたら、その
伝播力から考えて、凄まじい速さで社会構造や人の思考そのものが画一化され、憲法21条
なんぞは形骸化してしまうに違いない。そこに独善的で強力な指導者でも現れたとしても
それは人々が望んだことだと言えるのだろうか。

さて、少々大袈裟になったが、そんな潜在的なリスクに富んだネット上に放たれた個々の【気分】
をひとつの情報として扱ってよいものなのだろうか。【情報】とは、本来意志【情】を持った者が、
誰かにそれを伝えたい【報】と感じ、しっかりと受け取り手が存在する場合に成立する概念だと
思っている自分としては、やはり【気分】とは区別する必要があると思っている。

そんな情報とも呼べないような浮遊感に満ちた言葉で、巷が飽和するようなところまできている
というのに、今さら自らの意志を文章に変換し、あたかも人と同じようにネットの底なし沼へ
投げ込んでみて、それはどこまで人に伝わるものだろうかと疑問に思ったとき、どうしてもネット
世界に対して、その限界と一抹の失望感を抱くことになる。そして次の瞬間には自らの意志が
簡単に人の気分に染まって気が変わるのではないかという恐怖感がやってくる。

また、ネットを利用するにあたり、例えそこに厳しい現実があり、それを伝えたいという気持ちが
あったとしても、スクリーン越しになると仮想空間というフィルターがかかってしまう。その
フィルターの内側は、誠に都合の良い事ばかりを見つけやすい環境でもあって、人はそんな
ヴァーチャルな現実を見聞きして物事の本質を理解し、それから先への想像力と行動力を
充分に喚起することが出来るものだろうかと思うと、どうしても積極的になれなくなる事がある。
それでも最終的には何らかの得るものがあるだろうと信じて、眼前の郵便ポストならぬ【投稿】
や【送信】と書かれたアイコンを矢印でつっつく訳だが、人と直接話す場合と同様の効果など
想像してはいない。

「遠くの人にも発信できてるんだから、そのうち誰かが反応するんじゃないの?」

程度の淡い希望のみしか得られないのである。必死で何か考えてみても、結局はその程度の
気持ちしか載せられなかったことは、本当に不本意でもあり、悲しいものだ。どんなにソーシャル
な【お友達】が増えたからといって、親密な隣人に、ネットではどうしても勝てない。ただ、親密な
隣人が増えるきっかけにもなり得るというのは否定出来ないので利用するというだけの話だ。

 

たかが記録を残すというだけの話から、どうにもとっ散らかったものだが、いずれにせよ自分に
とって気分に呑まれてゆくこという事は、大局に身を委ね、流されて生きるを肯定するも
同じだ。それが嫌ならば、やはりそこから一線を画したところに普段からしっかりと身を置き、
特定の表現手段に依存せずに暮らす他はない。
それがまあ、割と簡単に実現出来る手段があるとするなら、そのうちの一つは農的な暮らし
なのだろう。日々の仕事そのものが、創作的であると感じながら生きられていればそれで
良いのではなかろうか。

当ブログはそんな様子を垣間見せるための単なる手段であって、決してそれ以上にも以下にも
成り得ない。そんな事も理解出来ないまま、何年もこれを更新してきたのかと思うと、少々
気恥ずかしくもなるのだが、常に何処かにあったむず痒さもこれで少しは和らぎ、落ち着いて
向き合う事が出来そうだ。

それでも、やっぱり私はPCに向いていない対話偏重型アナログ人間のようだ。

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