田舎日記ホーム >>> 田舎生活 >>> 新規就農者ブログ >>> #479 ボランティア一考

#479 ボランティア一考

| トラックバック(0)

田植えも終わっていないというのに、5・6日と外出していた。

行き先は明治学院大学。5日は大地を守る会の藤田さんが、白金キャンパスで
行っていた講話を学生に混じって聞き、翌日は友人が行っているボランティア学
という授業で話をしてきた。6日は、本当は二限で話をするだけの予定だったのだが、
一限のゲストが体調を崩してしまったとのことで、急遽授業に加わることになった。
本当は、学生と一緒に授業を受けようと思っていたのだが。
 
結果、生徒さん達から授業の感想を大量に受け取る。
いやはや、喋るのには別に困らないが、100人単位の授業だとは知らなかったもので
これは嬉しい。帰りの電車やバスの中でむさぼるように読ませていただきました。
宝物がまた増えたようです。


メッセージいっぱい.JPG

反応はおおむね良好のようで、かなりびっちりと書いてくれる生徒さんが多い。
中にはこちらに疑問を投げかけているものも見受けられるので、赤ペン先生よろしく
全部コピーしてから全てにコメントをつけて反しても面白いかもしれない。

 
しかし、ボランティア学という言葉、学問の分野としてはまだピンと来なかった。
それに、何故それに自分が呼ばれるのかも。 
本当のところ、今回は、見沼田んぼ福祉農園で毎年夏に行われる【サバイバルキャンプ】
参加予定の学生とちょちょっとセッションが持てれば良かったはずなのだが。
 
 
『人見さんの生活は、毎日サバイバルみたいなものだから、そんな観点で学生に
話をしてみてくれませんか?』
 
全然意識していないけれど、ここのところの生活はサバイバルっぽさに拍車が
かかってきているらしい。自分も見沼スタッフなので、適任なのだろう。

 
ボランティアという角度から考えれば、確かにヤブ刈りや、不法投棄の回収を行ったり
するし、全工程参加型の耕作希望者の受け入れ活動を行っている。無論、前者に関して
は無償労働であるし、人の受け入れに関しても基本的に耕作に最低限必要な実費しか
受け取らない。だが、それらを誰に認められるべくでもなく、ひっそりと単独で
行っているあたりが普通の市民運動などと質が異なっている。自分の田んぼ以外の
ヤブ刈りとか、ゴミ拾いとかはやりたくなくてもやらざるを得ないだけ。
その比率が純粋な耕作の時間と比較して多いから、逆に誰かに助けてもらいたい程
なのだが、なかなかそんな都合の良いボランティアは現れてはくれない。
機械修理などでも、周囲の方々から感謝される事もしばしばだが、が正直実入りになる
ケースは稀だ。


とにかく、自分のしている事は、他人から見たらボランティアにしか見えないだろう。
けれど、それは自分がこの地でこの先も生きていくために必要だから行っているという
理由があり、それは仕事の一環であるとも解釈している。このブログを書くのだって
同じ事が言える。経済的な面から考えても、どうやってコメを育てたのか、どんな
意志があって活動しているのかを他人に理解してもらわなければ、自分のようなコメの
販売スタイルは成立し得ない。【顔の見える農産物】どころか、face to face のみで
ほぼ全量のコメを売ってしまっているのだ。

だが、一限の授業内容を考えると、どうもそれで良いらしい。
手元のプリントでは、【食】がテーマに上っており、更には
『ボランティアを暮らしの「自給」、「自衛」、「自治」と呼び変えてみる』 という
記述まであった。・・・自分は農業ではなくて、これらを行っているのではないか?
だから、いつもいつも農業という言葉を使用する度に違和感を抱いていたのではない
だろうか。


また、一般的な売買のカタチである【交換の原理】及び、モノを媒介にして人の気持ちが
動く【贈与の原理】についてもおさらいとして説明が付いている。
 
ここで、何か一気に色々と結びついた。例えば、コメ袋に筆ペンで絵を描いたり、
農作物などを利用して贈答用のリースを作っているという行為が、実は単なる量産品と
異なった計算不能なものであり、本来ならば交換不可(別のものでは置き換える事が
不可能)の価値を持っていたという事に初めて気付かされるのである。それに対して、
お金を払ってくれる理解者と自分との関係はは何かと言えば、相互信頼に他ならない。
そして、相互信頼の関係を築くには、都市と農村という隔たりののある概念も必要無く
人々が相互扶助の関係と有難みの感覚を取り戻してゆくようになれば良いのだという、
これまで自分が主張しつ続けてきた事に落とし所を見出すことになる。

ダラダラと自分のこれまでの活動をノープランで喋っていたら、それらが頭の中で
次々に瞬間的な考察が起こり結びついてゆくという感覚は、何となく不思議なもの
だった。でも、喋ることに対して最初から戸惑いはないのだから、直感的に知って
いることを授業とかこつけて述べていただけなのかもしれない。

同時に、変わった事はしてきたけれど、そこまで間違った事もしていなかったのだと
いう安心感というか自信も湧いてきた。そこに、真面目に話しに耳を傾けてくれた
学生さんの感想文である。これには、本当に感謝しなければなるまい。なにより、
こういった心の交換がるからこそ、これからもしっかりと耕作以下諸活動を存続する
ことが出来るのだから。

やっぱり、まずこういった気持ちのやりとりがありきなのだと思う。
心地よく人と気持ちを交換できるようになれば、自然と何か手伝おうという気持ちに
なるものだ。

今日び、ボランティアという言葉はどうも無償労働や市民運動のそれとして画一化
されたイメージで捉えられる傾向があるように思う。だが、無償性にだけ注目して、
自治体や国が解消できない諸課題を市民に押し付ける格好になってしまったり、
企業が株主や消費者への体裁のためだけにCSRに力を入れるというのは、あたかも
バランスが悪い。例えば、ゴミ拾いのボランティアを行っても、ポイ捨てする人々の
モラルの低さを改善しなければ、いつまでもゴミ拾いの無償労働はなくならない。
それを改善する要素には、教育の仕組みが含まれるが、それをあるべき方向へと
変える事が出来るのは仕組みを作る側である。そこに手をこまねいていたら人々の
善意を浪費してるも同然である。また、環境に良いハイブリッド車を作っているから、
ウチの会社は地球環境の改善に寄与する事が出来るといってコマーシャルを展開し、
その売り上げの一部を利用して海外の砂漠で植樹活動を行っていますとPRしたとする。
それは非常に良い活動なのだが、購入者はどうだろう?ともすると血税が源泉の
補助金を貰って、まだ使える車をスクラップにして、わざわざまたエネルギを費やして
作られた新車に乗るのである。その事実を省みず、エコカーに乗っているから
地球環境に貢献出来ていると思っていたらなかなか滑稽だ。そんな勘違いによって、
企業のボランティア活動は維持されるとしたら折角関わってくれた人々の気持ちの
スレ違いも甚だしい。

このように、ボランティアは全て良いことという面だけでは無い。上記に述べた
前者・後者の例え共に、本質的な問題を抜きに関わった人間が【良い事をした】
という独りよがりの感覚だけを増幅させてしまう可能性が高い。それは、物事の
関係性が徹底的に排除される事で社会も経済も成り立っている今日において、
尚更危険な事であると同時に、何でも交換可能な【モノ・サービス】を仕掛け、
貪ることに偏重してしまった世の中の限界を見ているようでもある。

だからこそ、ボランティアに関わろうというのなら、世の中の仕組みそのものに
目を向けなければならなくなる。そこから先は、ボランティアを継続するなかで、
新たな潮流を生み出し、これまでとは異なる社会に変化させてゆくのだという主体性が
一層重要味を帯びてくる。兵士のクーデターやテロリストの志す革命とは性質が全く
異なるので、こういった緩やかな社会の変化なら誰しも身を投じ易く、社会も追従
しやすいのではないだろうか。

 
 
とかなんとか、もう、何を書いてるんだろうかといった感じになってきた。
でも、コレ位頭が働くというのなら、良い気分転換になったと言う事なのだろう。
 

ところで、当日撮影したのは学食での一枚。

ごちそうさまでした.JPG

手を合わせて、『いただきます。』『ごちそうさま。』
あ、ここクリスチャンの学校だったっけ。でもまあ森羅万象に感謝して生活します。
と、言う訳で主よ、ここに私をお導きくださったことに感謝申し上げます。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://inaka-nikki.net/mt/mt-tb2.cgi/1767