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#367 エンジンがつく

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最近になって、この表現をそこかしこで聞くようになった。
無論、エンジンが始動するという意で用いられている。

何年か前から気になってはいたのだが、若年層を中心にだいぶ定着してきているらしい。
何で エンジンは"つく" ものなのかと尋ねてみると、【つく】とは、どうも【点く】
を意図しているらしい。モビリティをはじめとする、動力付き作業機械の白物家電
扱いもここまで来てしまったか。だが、それをここで批判するつもりは無い。
おっさんの戯言だとか、マニアの執着だと言われようが何だろうが、単に【つく】だと
間違いだと伝えたいだけである。
 

 
それで、写真は何をしようとしている所だろうか?
これを見て分かる人は、機械に興味があるか、年配の方だろうか。

困ったときはヒモ始動.JPG
 
正解は、エンジン(発動機)を始動しようとしているところ。
スタータモータや、リコイルスタータが無くても、ヒモをクランクプーリーに巻いて
直接人間が引っ張ればエンジンを【かける】もしくは【始動する】事が出来る。


どんなレシプロエンジンでも、始動の仕組みは同じ。ヒモをプーリーに引っ掛ける、
始動クランク棒をクランクシャフトに引っ掛けて回す、キックペダルに足をかけて、
体重を乗せながら思い切り踏み込む、スタータモータのピニオンギアがリングギアの
山にかかる(噛み合う)、車体を滑走させ車輪の転がりを利用して、エンジンへ入力
する・・・すると、エンジンは自分で駆け(回り)はじめる。
どの方法も、エンジンが自律運転(連続的運転状態)を始めるためのきっかけを与える
動作であり、それには単なる電気のスイッチングとは異なる、【機械的な抵抗】及び
【強制的な回転運動の入力】を伴っている事が理解出来る。それらの表現として、
【かかる】を用いるのは、日本語として適切であると言えよう。

それでもまだ【エンジンがつく】と表現したいのならば、回転運動を入力した際に、
点火プラグに火花が飛ぶこと、あるいは圧縮された混合ガスが自然に着火するという
意味で【点く】を用いれば良い。

 
だから、エンジンがつくなどと軽々しく言われると本当に悲しくなる。
作業機械の使用方法や、メンテナンスについてレクチャーをするような場に、エンジンが
【つく】ものだと思っている人がいたら、何故、【かかる】なのかというところから
教えないと気が済まない。テレビや電灯とは根本的に構造の異なるものだという事を
知ってもらわなければ、その危険性や、メンテナンスを行う理由が伝わらないのだ。
何しろ、相手の中には、自分の自転車にすら油を注したことが無い者だって相当いるの
である。
 
 
燃料を燃やす事で回転し、強い力を発生するのは、外燃・内燃機関の最も得意とする
ところ。その燃料として化石燃料を使用しているからこそ、現在の文明があり生活が
ある。燃料を燃やして移動する、発電する・・・全ての機械に仕事をさせる。
燃料を使用するという意味では、原子力も例外では無い。
 
 
世間は、原子力は危ない、化石燃料をやたら燃やしてはいけないと言ってエネルギー
シフトの必要性を強調し続ける。エコロジカルな生活のために新たな仕組みが必要だと。
 
 
これらに同意するのは当然の事ではあろう。然し、物事の仕組みを変化させるには
現在問題となっている事象について種々の要素を把握・分析し、その各々に対して
改善を図るという過程が必要な事も確か。
 
 
それなのに、エンジンのひとつをとってみて【つく】と表現されるケースが増えている
事は、もう少し突っ込んで考えても良いのではないか。

何しろ、自分たちが現在も最大限の恩恵を受けている石油文明の象徴であり、また
環境破壊の元凶のひとつとも捉えられる内燃機関に対して
 
 
『興味はありませんよ。』
  
 
と言っているようなものだからである。
 
 
富の多少に関係無く、何も知らない・興味を持たない・教わる機会がなくとも、毎日
ダラダラと生きられ、更に好き勝手な言動も許されるのが現代。その事実がまるで
石油文明の最大の特徴になってしまっているようで非常に怖い。
今となっては、人々のコントロールは支配者ではなく石油そのものが行っているの
かも知れないとまで思うようになった。

考えてみるに、石油文明は社会構造を激変させ、人々の行動範囲や選択肢にも飛躍的な
広がりをもたらした。その過程の中で、何でも出来ると勘違いした人の行動は無秩序
化し、それらに対して国や権力は後追いで杓子定規な規制をかけるという構図が成り
立ってゆく。法は不都合な事象が発生する都度増え続け、度が過ぎれば人の可能性その
ものをを否定するというところにまで至る。そうなった場合は人の尊厳などについて
決まりなどあったところで形骸化してしまうだろう。また、人々の幸福には経済成長
ありきであるという考え方が未だにまかり通るのも、石油消費に依存してきた故に
その発想から脱却出来ていない者が多い表れでのように思えてならない。

極論を承知で言うならば、多くの企業というか支配者というか国家の考えも結局は
石油エネルギーに支配されてしまっている。弊害を見かけ上排除するための屁理屈を
こさえる努力をしてまでずっと恩恵にあやかり続けたいと思うならば、己の意思など
あって無いようなものではないか。そして、それこそが石油の意思に他ならない。


人は、物質をどう利用するかということばかり懸命に考えるのは好きだが、どのように
上手く永きに渡って付き合ってゆくかを考えるのはどうも苦手らしい。例えば、原子力
の利用がそうであるし、二酸化炭素の排出権取引なども、欲得を正当化するための
免罪符であろう。それが成立するには積極的に石油を消費する社会が存続し続けると
いう前提が必要なのであって、その為にお互いは経済的に協力しあうのだ。これが
果たして人の意思と言えるのか。人が作った仕組みをもはや制御出来なくなって、
呑みこまれているだけなのでは無かろうか?
 
  
そんな仕組みの中で今まで通り鳥のヒナのように、いつまでもピーピー騒いで口を
開けていればエサをくれ続ける程、石油文明に余力があるのかどうか疑問だから
エコだの持続可能社会などが盛んに取り沙汰されているのだろうが、その根本的な
問題部分にメディアが触れるのはタブー視され、余り表立った議論の対象となる
事は少ない。
 
だから、敢えて提言したい。 

身の周の全てのモノが普遍的なものだと思っているような、精神的にゆとりの
ある方には、少しずつでも良いからモノゴトの本質を解きほぐすクセをつける事を
強くお奨め申し上げる所存である。

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