千葉県で田舎暮らし・新規就農者のブログ-田舎日記の新規就農

千葉県で新規就農を果たした若者の新規就農の軌跡を、BLOGでお伝えしています。千葉県での新規就農を目指している若者の参考になれば幸いです。

新規就農者ブログ

2013年11月

なんとか再開を始めたものの、なんだか画像の読み込みがどうしようもなく捗らない。
周辺機器の動作が良くないのか、デジカメに入っているSDカードの不良なのか、どうにも
判然としないが、これまで散々たくさんの写真を上げてきた身としては、やはり困ってしまう。
 
でもまあ、どうせ今日行った作業は草刈り程度なのだから、もうその手の話題は無理に上げなく
ても良いだろうか。しかし、何時、どのような作業を行ったかは一応記しておこう。

11月28日(木) くもり

・休耕田の周辺草刈り(減反ぶん三反+無償管理地一反強+農道沿い二枚)
 以降は耕起準備のため一度雑草を焼く予定

こうやって書いてみると二行で終わってしまう。しかも、何処についてかは、詳しく書くと
地名や人名などの固有名詞を用いなくてはならなくなる。それは流石に避けたい。
写真とは偉大なものなり。
 
でまあ、もう冬になるというのに草刈りが続いているのである。今年になってから、次々と
耕作をして欲しいと頼まれたものの、こちらにも圃場にも諸々の事情があり、今年の作付は
断った田んぼばかり。それでも、放っておいてどうこうなるものでもないので、草刈りやら
耕起程度の最低限の管理は引き受けたが、どう考えても単なるボランティアでしかない。
一部は減反に充てたりもしているが、転換作物が植えられるはずも無く、戸別所得補償を
受け取ってみたところで、大して足しになるものでも無い。無いよりはマシだし、なによりその
補助金は血税で賄われているのだから、文句を言うべくも無いが・・・。
 
そういえば補助金だ。今年になってから、ようやく【青年農業者給付金】というものを受け取け取る
ことが出来た。就農五年目にして初のまともな補助金を手にした訳である。既に就農して三年
以上が経過しているというカウントになるため、給付を受けられる期間は来年までとなるが、
よく使い道を考えて有効に利用しよう。何も考えないでいると、本当にあっと言う間に生活費と
して消えてしまい、何も残らなそうだ。しっかりと形のあるものに変えておかなければならない。

就農を志す人に伝えたいのは、

【何に使っても良いお金150万円の給付が受けられるから農業を始めよう】

という短絡的な考えを絶対に持って欲しくないということだ。確かに助かる制度ではあるが、
仮に全くのゼロから始めるにあたって、その程度のものがあったからとて安心することなど
到底出来ないと同時に、ごく小規模で将来も集約化が期待できないような就農ケースの場合
は、給付されない可能性もあるということを頭に入れておいて欲しい。また、もともと農家の
息子などが、家から経営を分離させ独立するという形の就農も、この給付金の対象となるが、
その場合でも、将来はある程度まで規模拡大をするという前提が必要になる。

農業を行う上でのインフラがあろうがなかろうが、基本的には飽くまでも国策に則った形で
営農プランを立てる者しか、給付を認めない仕組みとなっているのは当然の事だ。
従って、経営開始型給付金の場合、対象は主に認定就農者(該当地域が人・農地プランに
位置付けられており、農業を行う上での拠点・設備等を有していること、及び該当地域で
本人が将来の担い手として周辺農業者や農業委員から承認されていること )となる。
このための書類や、地域に自分を認知してもらうための手続きは、本人も自治体の農政側も
割と大変で、前例のない地域の場合、先ずは【人・農地プラン】に自分の地域が登録される
ように動く必要がある。対応は、自治体によって異なるので、スムーズにゆく所もあれば、全く
そうでない所もあるということは知っておくべきだろう。いずれにせよ、本気で取り組んでいると
いう姿勢が農政や地域に伝わらなければ給付は受けられない。自分の場合、それに至るまで
約一年半を要した。(水稲で就農するという異例なケースだったのが時間を要した要因のひとつ)
 
・・・既にこの辺りでハードルが高いような気もするが、就農したら150万円貰えるとか思って
いるのは相当甘い。国にしても社会にしてもフルイは良く出来ている。

就農準備型の場合は県の農大などの研修施設ならびに、県の認める農業者などで研修を
受けている段階の者となる。こちらは開始型と比べても割と給付が受けやすいと言える。
通常の志願者へは、自分のようにいきなり知らない土地に飛び込んでゆくより、こちらの方を
強く勧めたい。

もっと詳しく知りたい読者もいるだろうとは思うし、それなりに裏話もある。
しかし、かいつまんで説明すると、上記のようにしかならない。

叛骨精神のみで始めた仕事だが、気が付くと自分の指導の仕方も県や市の農政とあまり
変わらないものになっていることに気づく。イバラの道をどうして人に勧められようか。
  

「稲作で新規就農したいんです!」

『君ねぇ、そんな大変なことするもんじゃありませんよ。自殺行為に近いよ。』

「どうしてもやってみたいんです。」

『じゃあ止めません。けど、どうやってお金を用意するの?軌道に乗るまでどうやって暮らすの?』
 
「・・・」

自分が銀行に努めていたとして、上の会話のような青年が現れて融資してくださいと言って
きたら即座に断るだろう。農政の職員だったとしても、細かな計画書を書かせ、徹底的に
ダメ出しをして、挫けない人かどうか、当面は様子を見ることだろう。
そして、この人なら大丈夫そうだと判断した段階から、本気で支援を始める。

少々厳しいな表現だったかもしれないが、これがは出来るだけ主体者と協力者のリスクを
減らしつつ、精神面での信頼関係を構築する一番初歩的で有効なプロセスだと言える。
この段階でつまづくような人は、もし農村で暮らし始めても、周囲と相容れない状況を
作りやすくなる。確かにそこで何をしようが、ダメだったらとっとと辞めて出てゆこうが本人の
勝手ではあろう。けれども、本人がいなくなったとて、余所者がやってきて何をしていったか
という記憶と共に地域の人や農地は残る。

知らない土地に入り、良好な関係を築きあげ、人の往来を増やしたり、更に定住者が
増えてゆくようになるか、外の人間に排他的な環境を生み出し、将来そこで生活しようとする
全ての人々にまで禍根を残すか、どちらが望ましいだろう?
 
別に上記のような小難しい事を考えずとも、要件を全うすれば農地の貸借や売買、耕作は
誰にでも可能である。しかしその権利を持っていると言っても、忘れてはいけないのは、
地域だけでなく国全体で考えてみても農地が極めてパブリックな空間であることだ。安定した
食糧生産の基盤でもあり、景観や生態保全の目的、災害時の緩衝帯、乱開発への抑止力など
農地の機能は挙げればキリが無い。そこを管理する権利というものは、将来にわたってその
維持を約束するという意味が必ず含まれている。本来それこそが耕作者主義のはずだ。
そのような感覚は、徐々に失われつつあるが、それを全う出来ない者に土地を委ね続ける事が
いかに危険かは、農に直接的に関わるもので無くても、毎日何がしかの食物を口にする以上は
知っておく必要はある。人の価値観は多種多様であって然り。けれども、自分のみならず、将来
の世代の生命活動に関与する話をそれと一緒にしてはいけない。
繰り返すが、それを理解出来ない者が手を付けてよい事業とは到底考えられないのだ。

農ブームなどどうでも良い。農業とは最初からそのようなものと無縁である。
 

やるなとは言わない。ただ政策に媚を売るような計画を書いて、その通りになるよう愚直に
実践しろとも言わない。ただ、始めようと考えるよりも先に、どうやったら続けられるのか、
脱落者が多い原因は何なのかをよくよく考えてみる事こそが必要だとつくづく思う。
 
 
それにしても今回は、実践者として発信しなければならないという使命感が働いたのだが
なんとも・・・本来はどこぞのお役人さんからも伝えてもらいたい内容になったものだ。

#579 アタマ整理中

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なんにも書かぬまま、気が付いたら冬が始まりそうだ。

更新再開に必要な環境は整った。しかし、ちしばらく中断して、あらためて考えてみると
書きたいことが何なのか、イマイチ自分でもよく判らなくなってきている。

無論、ブログなのだから、何を書いても良いはずだ。読者の方々の要望に応えるも良い
だろうし、日々の苦労をグチっても良いし、栽培中の作物観察や実験記録にしても良い。
実際に今までもそのように利用してきた。本来ならば、今後もそうすべきだし、そのように
するつもりではある。
 
ただ、本当に伝えたいことは現在何なのだろうかと。これがはっきりしないまま、その日
その時の気分を挙げてゆくというのが、どうにもすっきりしない。そんな中に時折
志を見せてみたところで、そうではない記事の中にそれは埋没してしまうかもしれないし、
ひいては自らの活動の軸がブレてしまうような気がしてならない。
ここらで長時間立ち止まってみたのは、無意識にそれを危惧しての事だったようにも思える。

 
 
「今どんな気持ち?」
 
言わずもがな、有名なソーシャルネットワークサービスのコピー。
気分で生きる世のツールであることをここまで端的に表現しているのは流石である。

知人との連絡や消息、近況の確認、諸行事の告知など、非常に便利ではあるのだが、
やはり依存する気にはなれない。果たしてこのようなツールに溺れ、気持ちに流されて生きる
ことがそんなに良い生き方なのだろうかと、普段通りしょうもない事を考えてしまうからだ。
 
「〇〇なう」 的な内容を毎日せっせとささやいてみたところで、そのような情報を欲する人など
そうそう居るものでもない。もしもいるとすれば、投稿主に心酔しているかストーカーの類だろう。
ならば、文章の主は何故それを毎日せっせと投稿しなければならないのだろう。
彼は「〇〇なう」をそこまで全世界に発信したいのだろうか・・・そんなはずも無さそうだ。
気分をその都度綴る必要性・・・いや、綴ってさえいない。キーボードを叩くか、スマートフォンの
画面に触れているだけではないか。例えば肉筆で「ラーメン〇〇なう」なる文章を挿絵つきで
残している人間がいたら、それはかなりの奇人である。しかし、綴るという表現は本来そう
いったケースで用いるべきものだ。綴っていない、書いていない、描いていないのだから、
tweetないしwisperという表現はしっくりくるのも当然だろう。従って、これまで自分がアップ
し続けてきた諸々の電子データも極端な解釈をすれば、それらと同じようなものだと言える。
需要はあったのかもしれない。けれど当人が何をどう発信すべきか、全てが釈然としない
ことに気づいてしまうと、継続は立ち行かなくなる。もっともらしい理屈を述べてきたが、これとて
更新をサボるようになった時点で釈然としない気分に真剣に対峙出来ずに呑まれてしまって
いるという訳だ。これが、システムに飽きて「〇〇なう」の更新を止めるのと何が違うというのか。

仮にそれが続けられたとしても結局、本来胸の奥底にある言葉はいつも表面には現れず、
気分のみが広大なエリアに向けてダラダラと無目的に発信されてゆく。そうやって気分を発散
することが、当人にとって精神を安定させる手段となりうるのならば、もはや何処にも本当に
伝えたいことなど残るまい。そして、いつの間にかただ発信すること自体が目的化してしまう。
そんな事になる位ならば、誰に見せるでもなく手書きの日記でもつけた方が良いに決まっている。
なにしろ、人の気分というものは意志よりも簡単に他人へと伝播してゆく。染まりたくなくても、
知らないうちに染まるのだ。この影響力は個々においては無力に等しいが、集まれば意図せずに
、人々を扇動することに繋がり兼ねない。それで良い時も良くない時もあるのだが、あまりに
無自覚かつ間接的な気持ちのやりとりを続けていると、自らの精神状態すら正確に判断
出来なくなる。現代は、そうやってネットを触媒とした気持ちの連鎖による暴走が起きて
いるような気がしてならない。そう感じるから、無意味な気分の発信は慎みたくなる。
逆に、それを利用して世論を形成しようという企みが増えた場合、ネット上では次第に個々が
自由に己の考えを表すことが困難になってゆくだろう。自由闊達な議論の場というネットの美点
そのものが失われ、誰も意図していないのに自動言論統制機能として働き始めたら、その
伝播力から考えて、凄まじい速さで社会構造や人の思考そのものが画一化され、憲法21条
なんぞは形骸化してしまうに違いない。そこに独善的で強力な指導者でも現れたとしても
それは人々が望んだことだと言えるのだろうか。

さて、少々大袈裟になったが、そんな潜在的なリスクに富んだネット上に放たれた個々の【気分】
をひとつの情報として扱ってよいものなのだろうか。【情報】とは、本来意志【情】を持った者が、
誰かにそれを伝えたい【報】と感じ、しっかりと受け取り手が存在する場合に成立する概念だと
思っている自分としては、やはり【気分】とは区別する必要があると思っている。

そんな情報とも呼べないような浮遊感に満ちた言葉で、巷が飽和するようなところまできている
というのに、今さら自らの意志を文章に変換し、あたかも人と同じようにネットの底なし沼へ
投げ込んでみて、それはどこまで人に伝わるものだろうかと疑問に思ったとき、どうしてもネット
世界に対して、その限界と一抹の失望感を抱くことになる。そして次の瞬間には自らの意志が
簡単に人の気分に染まって気が変わるのではないかという恐怖感がやってくる。

また、ネットを利用するにあたり、例えそこに厳しい現実があり、それを伝えたいという気持ちが
あったとしても、スクリーン越しになると仮想空間というフィルターがかかってしまう。その
フィルターの内側は、誠に都合の良い事ばかりを見つけやすい環境でもあって、人はそんな
ヴァーチャルな現実を見聞きして物事の本質を理解し、それから先への想像力と行動力を
充分に喚起することが出来るものだろうかと思うと、どうしても積極的になれなくなる事がある。
それでも最終的には何らかの得るものがあるだろうと信じて、眼前の郵便ポストならぬ【投稿】
や【送信】と書かれたアイコンを矢印でつっつく訳だが、人と直接話す場合と同様の効果など
想像してはいない。

「遠くの人にも発信できてるんだから、そのうち誰かが反応するんじゃないの?」

程度の淡い希望のみしか得られないのである。必死で何か考えてみても、結局はその程度の
気持ちしか載せられなかったことは、本当に不本意でもあり、悲しいものだ。どんなにソーシャル
な【お友達】が増えたからといって、親密な隣人に、ネットではどうしても勝てない。ただ、親密な
隣人が増えるきっかけにもなり得るというのは否定出来ないので利用するというだけの話だ。

 

たかが記録を残すというだけの話から、どうにもとっ散らかったものだが、いずれにせよ自分に
とって気分に呑まれてゆくこという事は、大局に身を委ね、流されて生きるを肯定するも
同じだ。それが嫌ならば、やはりそこから一線を画したところに普段からしっかりと身を置き、
特定の表現手段に依存せずに暮らす他はない。
それがまあ、割と簡単に実現出来る手段があるとするなら、そのうちの一つは農的な暮らし
なのだろう。日々の仕事そのものが、創作的であると感じながら生きられていればそれで
良いのではなかろうか。

当ブログはそんな様子を垣間見せるための単なる手段であって、決してそれ以上にも以下にも
成り得ない。そんな事も理解出来ないまま、何年もこれを更新してきたのかと思うと、少々
気恥ずかしくもなるのだが、常に何処かにあったむず痒さもこれで少しは和らぎ、落ち着いて
向き合う事が出来そうだ。

それでも、やっぱり私はPCに向いていない対話偏重型アナログ人間のようだ。

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